どうも。毎度のことですが、久々の投稿となってしまいました。前の投稿は今年の7月ということで、その後本当にいろいろなことがありました。
というのも、実は7月に父を、9月には母を相次いで亡くしました。私としてもまさかこの日が、まだ30代のうちに来るとは夢にも思っていませんでした。それも2人続けて。
親との死別というのは、人生でも類を見ないほどのパラダイムシフトが起こるもので、価値観、ライフスタイル、「時間」や「死生観」の捉え方などにかなりの変化があった2024年の後半でした。
その中で、いろいろと自身の価値観や世の中の捉え方にも変化があったので、今回書き留めておきたいと思います。
「普通の毎日」を維持し続けることの大変さ
うちは、いわゆる世間一般では中流家庭とか、一般家庭などと呼ばれるごく平均的な首都圏の平凡な一家でした。
父親は会社員で、世の中の多くの少年たちがそうであったように、私も反抗期などは「父親みたいな平凡なサラリーマンにはならない!」なんて思っていた時期もありました。
しかし、自分も17年間社会人をやっていて思うのは、その平凡を「維持し続ける」というのがどれだけ大変なことか、ということです。私も結局は父と同じく会社員として現在安定した暮らしは送れていますが、結局は独身ですから、この年になっても身軽に転職ができたり、フリーランスや起業などというハイリスクな選択も比較的取りやすい環境にあります。なので、たとえ仕事で嫌なことがあっても「まぁ、なんだかんだ言ったって自分ひとりが生きていければいいんだし」なんていう”心の逃げ場”のようなものが最後のところにあって、これの有無でけっこうストレスやプレッシャーの感じ方が違うんだろうなと思います。
当然、奥さんや子どもがいればそうも行きません。ましてや、共働きが一般的な今と違って父が生きてきた時代はまだまだ父親が唯一の大黒柱という時代。今の私のように「自分ひとりさえ生きていければ…」なんて考えは微塵もなかったでしょう。そういう意味で、今の私とは比較にならないレベルのストレスやプレッシャーを感じていたのではないかと思います。
そして、思い返して見ると我が家はさして裕福だったわけではなく、むしろ暮らしぶりは質素な方でした。かと言ってそれは”貧しい”のとは別で、子どもの頃から持ち物などは基本的に「人並み」。両親も「世の中の平均値」というのをけっこう意識していたんじゃないかなと思います。
今思うと「子どもに良い思いをさせたい」とか「すごく特別な体験をさせたい」という思いよりも、「すべてのことにおいて平均的なレベルの環境を用意したい」という方針だったんじゃないかなと思います。
こうやって言語化すると実に退屈な方針に聞こえますが「すべてのことにおいて平均的なレベル」というのがいかに困難なことか、これは大人になって働くようになってわかったことです。
私は転職の経験もありますし、20代の頃にあったリーマンショック時には失業していた期間もありました。お恥ずかしながら転職に失敗してその前にいた会社に出戻ったりもしています(笑)
このように、今思い返してみても20代、30代の私の人生はそれなりに波やムラがあった日々だったなと思います。一方、子どもに対して「すべてのことにおいて平均的なレベル」の体験をさせようと思うと、こうした人生におけるムラや波があると実現は困難になります。
父は、私が大学を卒業する時に「人より速く走ることよりも、立ち止まることなく歩き続けることの方が世の中ではずっと大事なことだ」と言ったのを覚えています。まだ22歳の青二才だった当時の私にはあまりピンと来なかったのですが、それ以上に、普段口数が少なく大人しいタイプの父はあまりこうした教訓じみたことを言うことが少なかったため、こんなことを言うなんて珍しいと驚いたために当時のことは今でも覚えています。
しかし今思うと、前述の父のセリフに親として、社会人として、人としての歩みのすべてが詰まっていたんだなと思い返されます。
両親の死をきっかけに「同性婚」と「孤独死」はそれぞれ独立したまったく別の問題と実感
私はゲイである以上、一応行政上は今後もかなりの間「独身」であることは確定しています。
同性婚の法制化の議論も俄には上がってはいますが、日本の場合は憲法24条の改正が必要という識者の見解もあり、改憲が必要となればかなりの時間を要するでしょうし、現在国を相手取った訴訟の結果次第では改憲の必要なしとなるとしても、同性婚という新しい概念が社会に定着するにはそれなりの時間が必要になると思います。
私は基本的には同性婚やそれに準じたパートナーシップ法制度の制定には前向きな立場です。しかし、日本における同性婚の議論にはかなり前から当事者としていくつか疑問に思うことがあり、度々SNSやこちらのブログ上でもそのことについて書いてきました。
この議論が純粋な当事者のものではなく、反政府、反保守、反自民党的な勢力のイデオロギー闘争に利用されてしまって当事者ですら引いてしまっているような現状や、同性婚反対派や懐疑派の人の意見も聞かずポリコレを傘に攻撃する凶器のような使われ方をしているうちは、日本において同性婚を認めるべきではない、とすら私は思っています。
そして、今回の両親の死を目の当たりにして、前述の政治的イデオロギーとして同性婚を利用する層とは別の、「同性婚さえ実現すれば、今の私たちが抱えている問題がすべて解決する」という幻想を前提に活動をしているような人たちの問題点も浮き彫りになったと感じています。
同性婚さえできればあとは安泰、という幻想
少し昔の話になりますが、新宿二丁目の飲み屋さんで一緒になった年上の人に「あんたも早く彼氏作りなさい?老後誰に面倒見てもらうつもりなの?」なんてお説教をされたことがありました。
こうした「彼氏さえいれば将来は安心」、という考えは私はすごく危ういと考えていて、その彼氏と老後もずっと付き合っている確率に加えて、(たとえ同性婚が可能になったとしても)彼氏が自分より長生きする確率、彼氏が自分が生きている間は健康寿命を維持する確率などを考えていくと、天文学的な数値の確率に自分の今後の人生を全ベットすることになります。しかもその間の変数は、自分の力ではコントロールできないものばかりです(このことはさすがに20代の若い頃の私でさえ想像できましたが…)。
SNSなどを見ていると、政治的にあまり過激ではない同性婚推進派の人の中には、割とこうした「同性婚さえ可能になれば老後や孤独死などのすべての問題から解放される」と、ふわふわした幸福なイメージを抱いている層も一定数いるなという印象を受けています。
しかし、介護や孤独死の問題を回避するための準備をすることと、「同性婚」はそれぞれ別の独立した問題であって、ましてや同性婚がそうした問題を解決するための手段にはなりえない、ということを今回改めて思い知りました。
私がそう考えるに至った具体的な体験
というのも、父が亡くなって約1ヶ月が経過した頃、私たちの実家で特に変わった様子もなく元気に一人暮らしをしていた母が突如様子がおかしくなり、病院に行った際にはすでに手遅れという状態でした。緊急で入院することになりましたが、その僅か3週間後に他界しました。
ただ、それもちょうど父の死亡後の手続きがいろいろと残っていて、姉がその用件で母に電話をしたところ明らかに様子がおかしく、すぐに実家に駆けつけて病院に連れて行きました。
あれも、姉が電話をするのが1日でも遅ければ母以外誰もいない私たちの実家で気を失い、人知れず息を引き取っていた可能性が非常に高かった。
つまり、50年も連れ添ったパートナーがいようとも、母はあと少しのところで孤独死するところだったわけです。あれも父の死後状況が落ち着いて、行政手続きなどもすべて完了していたら特段母と頻繁に連絡を取る用事もなかったわけですから、まだいろいろとやらないといけないことが残っているタイミングだったからこそ、家で倒れて一人きりで絶命…という最期を回避することができただけで、今思えば孤独死する可能性の方がずっと高かった。
うちの両親はちょうど団塊世代で、2人とも地方の出身です。旧来の日本のような窮屈な地縁血縁や偏狭な地域社会の煩わしさから解放されて都市部で自由な生活や人生を手に入れた最初の世代に当たります。しかし、その自由を享受してきた者は、男であろうが女であろうが、既婚だろうが未婚だろうが、LGBTであろうがヘテロセクシュアルであろうが、全員がそれなりの確率で「孤独死」のリスクを負っているということを肌で感じました。
ですので、「孤独死が怖い」「老後が怖い」と思うのであれば、それは同性婚やパートナーの有無ではなく自分自身で解決方法を考えていかなくてはいけません。その解決方法の最適解は…なんて話をするとすごく夢のない話になるので今回は控えますが、同性婚ができるようになったら人生がバラ色になる、一発逆転ができる、というような幻想を抱いている人がいるとするならば、過大な幻想はより深い幻滅を生むことになるので、あまり期待しない方が良いと思います。
それでも、やはり同性婚自体は必要と考える理由
と、ここまで夢のない話をしてきましたが、それでも私はやはり同性婚やそれに準じたパートナーシップ法制度は必要だと考えます。
ただ、この理由もまた、夢のないものと感じられるかもしれません。
2024年は夏以降、本当にあっという間に過ぎて行きました。仕事をしながらも、きょうだいで手分けして行政上の手続きに加え、公共料金や保険料、税金の過不足分の算定、保有している金融資産の調査、今後の実家(持ち家のマンション)の扱いの協議など…。
膨大な量の書類に目を通し、たくさんの難解な書類を作成し、あちこちから証明書を取り寄せ…莫大な労力を使う日々で正直なところ両親を亡くした悲しみにゆっくりと浸っているヒマもない状況でした。
ただ、ふと「もし同性のパートナーが不慮の事故等で亡くなった場合、こういうのってどうするんだろう」と考えたときに、とても恐ろしい気持ちになりました。
私たちきょうだいがこれまで行ってきた一連の行政手続きに一切関与することができません。言ってみれば現状の日本では何年一緒に暮らしていようが同性のパートナーは「他人」なわけです。家族葬が主流の昨今に至っては、葬式に出席できるかどうかさえも怪しい。
それに加えて、例えば片方の名義で住宅を購入した上で二人でローンを払ってきた場合や、片方の名義の口座で二人分の貯蓄や投資なんかをしていた場合はもう最悪。残された身としては、自分が払ってきたローンの分の財産や、自分が貯めてきた貯蓄や投資まであちらの親族に全部取られてしまう、ということが起きてしまいます。
ここまで来るともう同性婚ができないことによる「実害」と言っても良いでしょう。
当然、そのためにはたとえ長年連れ添ったパートナーだとしても銀行口座は厳格に分けるとか、共同名義でローンを組める銀行からしかお金を借りないとか、もう年配のカップルであれば遺言を遺しておくとか、自衛することが大事なのは大前提です。
しかし、人がいつ死ぬかなんて本当に誰にもわかりません。神のみぞ知る真実です。
誰もがお爺ちゃんと呼ばれるような年齢まで生きられるわけではないし、「その日」はある日突然来るかもしれない。「その日」のための準備などまだ何もしていない時に来たらどうなるのか…。
そうした観点から考えると、やっぱり「同性婚」によって救われる人たち、回避できる争いはたくさん存在すると思います。しかし、それを本当に必要とする理由があまりに「地味」な一方、一部のブライダル業界などが悪ノリして同性結婚式などをPRに使ったり、そういったムードが前述のような「同性婚さえできればあとは人生バラ色」という風潮を助長したりして、こうした「なんとなくキラキラした同性婚のイメージ」が、本当にこの制度を必要とする人のニーズをかき消しているようなきらいを感じました。
悲しい1年ではあったけれど、感謝の1年でもあった
と、ここまで少し深刻な話ばかりになってしまいました。
2024年は私にとって良い年だったかと聞かれれば、とてもじゃないけど「良い年だった」なんて言える年ではありませんでした。むしろ、言葉を選ばずに言えば39年の中で一番キツイ1年でしたよ。
ただ、改めて自分はさまざまな環境や人に支えられて生きているのだなと感じた一年でもありました。
「普通」のことを、「普通」にこなしている姿を私たちに見せてくれた両親
まずは当然、両親に対して。
最初の章で述べた通り、私の両親は私たちきょうだいに、すべてのことにおいて平均レベルの環境を用意してくれました。
また、当然のことかもしれませんが、私にとって親というのは、父は朝になれば家を出て会社に出勤し、母は家の仕事をしながらも昼はパートタイムに出ている姿を幼い頃からずっと見てきており、それが「普通のことだ」という価値観を内面化して生きてきました。
ですので、学校を卒業すれば父のように朝から外に働きに出かけ、実家からは独立して自分の稼いだお金で生きていく、ということに特段の疑問を一度も抱かずに生きてこられた。
これは当然のことかもしれませんが、世の中にはそうでない家、そうでない父親や母親も当然存在する。そういったところからスタートした人が、世の中で「普通」とか「当然」とされている価値観を体得するには、やっぱり人よりもたくさん努力をしないといけなかったと思います。
こうした点において、すでに自分は幸運だったのだということを今年、深く実感しています。
最期まで元気だった頃の姿を保つためにご尽力くださった医療従事者の皆さん
私にとって病院は、そこまで身近な存在ではありません。
街のクリニックくらいであれば時々はお世話になりますが、今回、父や母が最期に入院していたような病床のある大きな総合病院は、ほとんど行く機会がありませんでした。
今回、特に母は入院して間もなくほぼ意識もない状態になり、寝たきり状態に。
しかし驚いたのは、本当に自宅の寝室で眠っているような感じなんですね。「病人」という感じがほとんどしなかった。
1日のスケジュール表を見ると、私たちが面会に訪れている以外の時間に作業療法士の方や理学療法士の方々がリハビリの時間を設けてくれていました。
リハビリと言っても、血流が止まらないようにしたり、床ずれにならないようにするようなものだと思うのですが、そのおかげで本当に顔色を保っており見た目だけは元気な頃の姿を維持していました。それは定期的にお風呂に入れてくださっていた介護士さんのおかげでもありましたし、そもそもそれを提案してくださったのがとても気の利くベテランの看護師さんだったとも聞いています。
その後母は奇跡的に意識を取り戻し、呼吸器も外れて話せるようになるまで回復しましたが、脳を病に侵されてしまっていたため短期的な記憶が失われた状態でした。ただそれでも昔の家族での楽しかった記憶などは覚えていて、最期の最期にかけがえのない時間を過ごすことができました(だからこそ、最期を迎えたときは尚のこと辛かったです)。
もしかすると、このまま家に帰れるかも?と思い医師の先生に聞いたところ、「亡くなる直前というのはこういうのはよくあることで、最初にお伝えした状況と変わりはありません」とキッパリ言われました。人によってはこういった言い方にショックを受けるかも知れませんが、私たちとしてはそれくらいハッキリ言ってもらったことで最期までできるだけ病院に足を運ぼうときょうだいで努めることができました。
便宜を図ってくれた勤務先の会社と同僚など
実は今回、父とは1ヶ月~2ヶ月に1度程度しか会っておりませんでした。別に仲が悪かったわけではなく、本当にまだ70代で亡くなるとは思っていなかったからです。
亡くなる前の2年くらいは要介護度が上がり施設に入っていましたが、そこから肺炎に罹ったとのことで病院にかかったのですが、姉や母も含めてまた治療が終われば施設に帰るだろうと思っており、当然私もそう思っていました。
そうしたら、本当にあっという間。病院に入院してからたった1ヶ月で他界してしまいました。私にとってこのことがとても心残りになっていた矢先に母の余命もあと僅かということが判明した。
しかし不幸中の幸いと言いますか、勤務先はコロナ禍が落ち着いた後もテレワークと出社をハイブリッドで行っており、母が入院して以降は病院と同じ市内にある誰もいない実家に週の半分滞在してテレワーク、もう半分を都内の自宅で過ごしてその時は会社に出社するという二拠点生活をしていました。
実家からテレワークをしている日も、勤務先は時間休の制度があり例えば正午の昼休憩と時間給を合わせて長めの休憩時間を確保して母の入院する病院へ行くということもできた。
おかげで、仕事も滞りなく進めながらも実家と同じエリア内に住む姉たちも含め家族との時間を作ることもできました。
これもひとえに、こうしたITインフラを整備してくれていた会社(特に、弊社はすごく大手の会社というわけではないので、社内SEの同僚が2020年当時寝る間も惜しんで超特急でテレワーク環境を整備していたのを間近で見ていました)や、私がいない間も気遣って業務を積極的に拾ってくれた同僚などにも感謝です。
さまざまな友人たち
事情を知った友人から心配の声もいただきました。こうしたことの精神的な支えも大きかったです。
特に仲の良い人に関しては母がすでに助からない状況になった時から飲みに付き合ってもらったり、両親が他界以降も気分転換にご飯などにも付き合ってもらいました。
不思議と気分も晴れるもので、実際に会って話していると、「うちの両親はまだ若かったのに…」とか「俺はもう今後家族を亡くして1人きりだ…」とかそんな話をする気にはならず、「まぁ、老後寝たきりで苦しむ時間が少なくて済んだのは本人や自分たちきょうだいにとっても悪いこととも言い切れないよね」とか、「2人とも、何かすごい痛みや苦痛を伴うような最期じゃなかったのは救いだったよ」とか、そんなことを言っていたと思います。
これは別に取り繕ったり強がっていたわけではなく、自分を気にかけてくれる人がいることや、前述のように様々な人に支えられていたことを思うと、自然と湧き出てくる感想でした。
ゲイで現在パートナーもいない私としては、両親を亡くすと本当に「家族」を失うことになります(当然、姉たちも家族ではありますが、姉たちにとっては自分の子どもたちや旦那さんが実家よりも優先する家族ですからね)。
母の余命が近づくにつれ、迎えるその日は自分は「誰の家族でもなくなる日」であり、深い孤独感に苛まれるだろうと予想していました。
しかし現実にはそんな孤独感は抱くことがなかった。むしろ前述のような感謝の気持ちさえ感じられる半年間でした。
このように、2024年は本当に自分にとっては忘れられない年になりました。
皆さんにとって今年はどんな年でしたでしょうか?
2025年は私にとっても気持ち新たに過ごす年にしたいですし、皆さんにとっても幸福な毎日になりますよう、願っております。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。