どうも、英司です。
緊急事態宣言も解除されて、徐々に日常を取り戻しつつある昨今ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
日本という国の制度上、自粛警察の発生は「必要悪」
自粛期間中、SNSやネットニュースでも度々話題となっていた「自粛警察」と呼ばれる人たちの言動について、私もいろいろ思うことはありました(個人的にはこのネーミングも好きではありません。警察官の方々に失礼ですよね)。
ただ一方で日本という国は昔から「国民同士の相互監視」が、いわゆる「空気」と呼ばれるモノに変容し、それらがうまく統治して来た国であるのも事実です。それに加えて、現行の法律では強く国民の私権を制限できない以上、こうした自警団的な振る舞いをする人たちが発生するのも制度上致し方のないことだと思い、静観して来ました。
ある程度それらを総括できる状況になりつつある今、少し振り返ってみた上で私の考えについて書いていきたいと思います。
常に「命」と「経済」を天秤にかけ、両者は両立できないと主張する人たち
今でも一定数の方々から度々耳にするセリフですが、緊急事態宣言の解除や経済活動の再開といったニュースが流れる度に「国民の命と経済、どっちが大事なんだ!」と強い怒りを表明される方々がいらっしゃいます。
彼らの主張をよくよく見てみると、経済=弱肉強食の絶対悪、命=国家が保証して当然のものであって、両者は両立するものではなく、どんなことがあっても後者が優先されるべきだという前提が垣間見られます。
私も当然、「命」というものは最も大事であるということに対しては反論の余地はありませんし、日本は近代国家を名乗る以上、これは必ず保証されていなければならないと考えています。
しかし、「命」と「経済」というものが、彼らが主張するような対極的な概念であるかどうかについては、疑問があります。
「経済」は命を守るために発達した
私も社会人になってからようやく「経済」というものを学ぶようになりました。だけどきっと、学生時代に理屈として経済を学ぶよりも、今の方がずっと自分のこととして学べているんだろうなと感じています。
経済という概念の発生から経済学という分野の発展に至るまで、すべてにおいて一気通貫しているのは、経済というのは「一人でも多くの人の命を守るために発展したもの」であって、決して弱肉強食の社会で勝ち負けを明確にするために発展したものではない、ということです。
例えば、経済という概念を不動のものにさせたのは「通貨」の発明です。通貨とは要するにお金のことですが、これがまだない時代は主に物々交換がかろうじて経済と呼べるものでした。これの何が問題なのか。まずは欲しいものを探すのに大変苦労します。ただそれ以上に深刻なのが受給バランスを取るのが非常に困難であるという点です。
例えば100人の村なり国なりがあったとして、そのうち95人の人が薪や石器を作っていたとします。お米や野菜を作っていたのは、たった5人でした。その場合どうなるか。そこには飢饉が起きることになります。お米も野菜もすぐには作れません。もちろん、薪や石器は食べられません。
だけど、これらの物々交換を通貨が仲介するとどうなるか。足りなくなりつつあるモノには金貨が何枚も必要になり、余り始めているものに対しては値段がつかなくなる。つまり、需給バランスがいち早く定量的に可視化されるため、薪や石器を作っていた人の一部が作るものを変更すると言ったケースが発生します。
やがて、それらの情報を俯瞰してバランシングをする人を置いたりすることで、飢饉を回避できる可能性が格段に上がって行きました。これこそが「経済」の原点です。
「経済」への露骨な拒否反応
この経済の話を現代に置き換えると、医療機関や教育機関など、社会的な弱者のための機関や、社会的には必要な機関や職業なのに、一生懸命に取り組んでもお金にならないようなことに対して、多くの利益を生み出している企業やその受益者となる可能性がある一般国民から少しずつ税金を徴収することで、そこで働く人の生活を保証する仕組みが確立されています。
他にも、毎日ゴミ収集に来ているのも、すぐにでも飲用水として利用できるほどに綺麗な水が蛇口を捻ってすぐに出てくるのも、多額の税金が投入されているからです。街にゴミ収集が来ず不潔なままずっと放置されていたら、コロナより深刻な疫病が蔓延しているかもしれません。汚染された水が水道から出てきたら…考えただけでも恐ろしいことです。このように、間接的にでも私たちの命は経済によって守られています。
自粛警察の人のうちの少なくない人たちによく見られたのが、「経済」というものへの反射的な拒否反応でした。そしてもうひとつ見られた傾向は、常に私たちの社会はゼロか100かの選択をしなければならないという強迫観念にも似た主張でした。
複雑さや曖昧さへの耐性
私も若い頃、完璧主義的な傾向が強くて、このようにゼロか100かで物事を考えてしまう気持ちはよくわかります。ただ、今はそれでは現実を正確に把握することができないと考えています。
今でもコロナ禍を巡って一部の方からよく聞かれる言葉として「誰一人死なせてはいけない」というセリフがあります。
これは、誰も反論のしようがないほどの正論です。だからこそ、この正論を威勢よく誰かに振りかざしている最中というのは、自分は高潔で正しい人間であると実感できて本当に心地よいと思います。
ただ、世の中というのはもっと複雑です。「命は大切だよね?」と聞かれれば誰もが「はい」と答えます。だけどそのあとに「貧しさで辛い思いをするのは嫌だよね?」と聞かれれば、そっちにも「はい」と答えるでしょう。
私はかねてから「コロナで亡くなる人を救えても、経済苦で自死する人がそれ以上の数出てきてしまったら意味がなくなってしまう。コロナをゼロにすることはできない以上、どこかで判断を迫られる時が来るはずだ」と言った趣旨のことを言ってきました。各種メディアで同様の主張をする方もよく見ます。
ただし、「誰一人死なせてはならない」と主張する人は必ずと言って良いほど「経済と人命を天秤にかけるなんて野蛮な思想だ」といった反論を行います。
私はこうしたゼロか100かの議論はまったく無意味な上、一切の解決策が生まれることがないと考えています。
ちなみにこうしたゼロか100かの議論はLGBTの人権を取り巻く議論でもお馴染みの光景です。具体的には、日本政府はLGBTにとっては悪の巣窟で(かつ外国には批判すべきことが1つもないユートピアがあると純粋に信じていて)すべてのことに対して批判的な勢力と、日本には一切の不便も差別もないと言って譲らない勢力との不毛な水掛け論争です。このあたりは、また別の機会に取り上げます。
経済が停止した世界を具体的に想像する
先程、「経済は、命を守る手段」と述べました。最後の1人のコロナ感染者が完治するまで日本経済を停止させた場合、どうなるでしょうか。
間違いなくこの日本は、先進国から転落するでしょう。リベラルなインテリ系のコメンテーターなどは「すでに日本は先進国ではない」と言った言い回しが好きですし、実際には先端技術開発競争は完全に米中の後塵を拝する状況になっていて、日本はどこか「衰退」とか「停滞」みたいな印象が強くなっているのは事実です。
しかし、蛇口を捻った水がすぐ飲めるのも、悪天候でも停電しないのも、国中どこにでも電車や高速道路を使って行けるのも、深夜に安全に出かけられるのも…世界的には上位数%の経済大国にのみ許された生活であり、日本はなんだかんだでそれらが脅かされる状態にはなっていません。
これもまたよく聞くセリフで「心の豊かささえあれば、別に貧しくなったって良いじゃないか」というものがありますが、本当に現代の日本人はそうした生活に耐えうるでしょうか。
私の両親のような団塊世代やそれ以上の世代ならともかく、多くの現役世代にとって、安価で病院にかかれることも、選挙権や言論の自由が保証されているのも、110番すればすぐに警察が駆けつけてきてくれる安心感も、綺麗に整備された道路や街も…全部生まれた瞬間から当たり前に保証されていて、水や空気のように享受して来たのではないでしょうか。
「経済が衰退する」「先進国から転落する」というのは、これらの一部か、下手すればすべてを失うことを意味します。
一度、医療や福祉インフラを失ってしまったらどうなるか。
今回のコロナは貧しさに耐えてなんとか乗り越えられたとしても、次に何かしらの疫病が流行した時にはすぐに医療崩壊を起こし、今度こそ莫大な犠牲者を出すことになるかもしれません。
また、一度放棄したインフラや企業を復活させるのは、それらを維持した場合以上の費用と労力、そして長い時間が必要となります。
経済が貧しくなれば国民の不満が政権や政治家に向かないようにするために情報統制が敷かれ、言論の自由までも失われるかもしれません。もっと最悪な場合、こうした国内の飢えや渇きは国際情勢や外国政府によってもたらされていると吹聴する政治家などが現れ、国家間の衝突、より踏み込んで言えば戦争のリスクも格段に高くなります。
…と、まぁ随分と悲観的すぎるシミュレーションになってしまいましたが、何が言いたいかと言うと「正義はひとつではない」ということと、「平和に暮らすためには経済も大切」ということです。
大局観を持つということ
何も私は、早く遊び呆けたいために「経済も大切」と言っているわけではないことがこれで少しは理解していただけたのではないでしょうか。これは私なりの「大局観」をしっかり持った上で考えていることです。
大局観というのは「物事の全体像を俯瞰した上で、適切な判断をすること」と言った意味です。
社会全体、とまでは言いません。自分や自分の家族、それに友達10人くらいの顔を浮かべた上で、どうすることが「全体に降りかかる不幸の総量を最小化できるか」を考えて出てくる答えこそ大局観を持った答えと言えるのではないでしょうか。
自粛警察の正義は正しいです。
だけど、事実を正確に把握しているかどうか?今だけでなくこの先のことも考慮されているのか?社会全体の幸福/不幸の総量をよく考えた上でその正義を振りかざしているのか?という点においては、私としては疑問が残っています。
「一人も死なせてはいけない」という、誰も否定できない絶対正義を前に、それに対する反論や、少しでも否定するようなことを言うのは大変憚られることです。だけど、どこかでそうした過度な「単純化」が引き起こす弊害がしっかり指摘される流れができなければいけないとも思い、今回ブログを書きました。
このエントリが、少しでもそうした流れを作る一旦を担えれば幸いです。