ミレニアル世代ゲイの私が見た平成サバイバル-陰鬱、退廃、そして再生の時代-

社会
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どうも、英司です。
本日2019年4月1日、新元号が発表となりました。注目された新元号は「令和」ということです。

いつもは(と言っても、前回の改元時は3歳だったため記憶はありませんが)天皇陛下の崩御と改元はセットになっているものでしたが、今回は桜が満開の温かい晴れた春の朝に新元号が発表となり、いよいよ新しい時代を迎える祝賀ムードに包まれた1日だったと思います。こういう改元って、すごく良いですね。

私は一応は昭和生まれですが、人生のほとんどを「平成」で過ごしています。物心ついた幼少期から少年期、思春期、青春期、青年期、そして30代の責任世代として過ごす現在-。

個人的に「平成」を物語る上で重要なエピソードについて、ミレニアル世代としてこの時代を生きてきた者の一人として考えてみました。

戦争こそなかったものの…

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今上天皇も天皇誕生日の際に仰っていましたが、日本が大きな戦争に巻き込まれることなくひとつの時代を終えられたことは、本当に良かったと思います。

しかし一方で、東日本大震災や阪神淡路大震災に象徴される大規模な自然災害、地下鉄サリン事件のような前代未聞のテロ事件、イジメの陰湿化や相次ぐ子供の自殺、その文脈の中で発生した神戸の連続児童殺傷事件(いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件)など、安定していた外交とは裏腹、国内には陰鬱さや退廃的空気、恐怖感などが入り混じって漂っていた時期がすごく長い時代だったのではないかと思います。

最後の数年はオリンピックの開催が決まったり、長く続いた不況から脱し雇用状態も回復したりと明るい話題も増えましたが、私自身も、平成という時代は明治や大正、昭和のような荒々しさはないものの、なかなか不景気の苦しい状況から脱出できず、良くも悪くも「変化がない」、より正確に言えば「変化したいのにできない」ようなもどかしさのある時代だったと感じます。

私が一番印象に残っていること

中でも、私が大人になった今でも一番印象に残っている事件が、神戸連続児童殺傷事件、いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件です。

この事件は何もかもが異常でした。
犯人は「酒鬼薔薇聖斗」という名前を名乗り、同市内に住む児童を殺害後、遺体を切断。その頭部を地元の中学校の校門に置くという事件でした。

中学校の校門に置かれた頭部の口は耳に届くまで切り裂かれており、そこに「酒鬼薔薇聖斗」という名前で書かれた犯行声明文が挟まれていたと言います。間もなくして、同じ犯行声明文が地元の地方紙である神戸新聞社にも送られ、その内容も連日報道されていました。

下記がその全文です。

さあゲームの始まりです
愚鈍な警察諸君
ボクを止めてみたまえ
ボクは殺しが愉快でたまらない
人の死が見たくて見たくてしょうがない
汚い野菜共には死の制裁を
積年の大怨に流血の裁きを

SHOOLL KILL
学校殺死の酒鬼薔薇

「積年の大怨」「SHOOLL KILL(原文ママ)」「学校殺死」等、学校というものに強烈な怒りや恨みを持っている人物が犯人ではないか、との分析がされていました。

警察からリークされる情報によると、犯人は若い男性の可能性が高い、との報道がされていましたが、事件発生から約1ヶ月が経過し、逮捕されたのはなんと14歳の中学生だったのです。

事件の残虐性はさることながら、ここまで残忍なことを中学生の少年が犯したということに日本中が震撼し、恐怖に襲われます。センセーショナルなマスコミの報道は加熱していきました。

私は酒鬼薔薇聖斗と同じ時代に中学生

この事件が起き、犯人が逮捕された時、私も中学1年生でした。犯人の酒鬼薔薇聖斗は中学3年生だったので2歳違いです。テレビで見聞きする情報はあまりに現実離れしすぎており、私としては正直「相当やばいことが起きている」という実感はありませんでした。

しかし、保護者や学校、先生たちの焦りようは尋常ではなく、通っていた中学校でも早急にスクールカウンセラーの先生が雇われたり、「こころの教育」なる授業や時間が設けられたりと、今思えばその時代の大人たちは「焦り」というよりは「恐怖」に突き動かされていたようにも思えます。

しかし、あの時代に同じ中学生として過ごしていた私は、この事件はある程度「起こるべくして起こってしまった」側面は否定できないのではないかと思うのです。

学校という名の「治外法権地帯」で起きていたこと

私は1991年・平成3年に小学校に入学し、2000年・平成12年に中学を卒業し、義務教育を終えました(酒鬼薔薇聖斗事件は1997年・平成9年に発生)。

この時代の公立学校というものは、今の感覚で言えばお世辞にもまともな場所ではなかったと思います。もちろん、情熱を持って指導に当たっていた先生もいらっしゃったとは思いますが、日教組の影響が今よりずっと強く、生徒は二の次で組合活動に精を出す先生や、生徒は自分より弱い立場であることをいいことに殴る蹴る、暴言罵倒中傷など当たり前。

イジメがあっても「弱い奴が悪い」と言い放って解決になど動かず放置。それでいて世間からは「先生」と呼ばれるせいか保護者にも横柄な態度を取るし、保護者も保護者で私たちの親世代なんかは大学進学率もまだ低かったこともあって「先生は良い大学まで出た賢い人たち。そんな偉い人に私たちなんかが口出ししちゃいけない」なんて言って黙っていたものだから、更に気を良くしてエスカレートする一方。

これらに反発して荒れる子がいても、保護者には「お宅のしつけはどうなってるんだ!」と怒鳴りつけるなど、今で言ういわゆる「モンスターペアレンツ」の真逆現象「モンスターティーチャーズ」だらけだったと思い出されます。

そして、私の世代や私より少し上の世代の公立学校なんて、どこも似たり寄ったりだったのではないかと思います。

あの時代の「学校」という空間の中は、言わば「治外法権地帯」だったように思います。先生という存在がそのままルールであり法律であり憲法である空間。その先生たちは保護者や地域社会からは煽てられ、持て囃され、調子に乗って、どんどん浮世離れした異様な自分の箱庭を「学校」という空間の中に築いて行って、もう1990年代の学校なんて見るに堪えない状況だったと思います。

更に悪いことに、これは日教組のような政治的にやや偏った人々のイデオロギーに特有の主張なのですが、学校という場所に警察権力が入ることを非常にタブー視する向きもありました。その理由は、憲法において学問の自由が守られているため、学校という場に公権力が入るのは違憲であるという理屈です。

この理屈は1960年代の学生運動の時代に盛んに主張された理屈で、学生運動が相当過激化・先鋭化するまで警察が取り締まれなかった原因の一つにもなったと言われています。

この理屈によっていじめや傷害事件が起きても警察の介入を拒み、事なかれ主義の学校と教師、教育委員会が結託して被害者に泣き寝入りを強いるようなことばかりだったと思います。つまり、長きに渡り「学校」という空間の実態が白日の下に晒されることはなく、それを良いことに教師たちの楽園と化していて、そのピークが1990年代だったのではないかと考えます。

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学校への公権力の介入が始まる

あの時代、マスコミ各社はこの事件を連日センセーショナルに取り上げ、ほぼ毎日のように「キレる中学生」という特集を組むようになりました。「今の中学生が考えていることがわからない」「今の中学生はみんな心の奥に凶暴性を隠し持っている」のようなことが連日テレビで流されていました。その時代に中学生をやっていた私としては、非常に腹立たしい限りです。

しかし同時に、こうした犯罪を未然に防ぐ取り組みも始まります。前述しましたが私の通っていた中学校にも、事件の翌年にスクールカウンセラーが採用されたり、道徳教育などにも力を入れたり。その一つに、警察権力の介入もありました。

酒鬼薔薇の逮捕直後は、現役の中学校教師なんかがテレビに出て、マスコミと一緒になって偉そうに「中学生批判」を展開するような場面も多く見られましたが、徐々に「これだけの事件、しかもそこに至るまでに実にさまざまなシグナルがあったのにもかかわらず、それを防げなかった学校や教師、教育委員会は一体何をやっていたんだ」「教師たちは自分にも責任があるのに何を偉そうに評論家のようなことをしているんだ」という批判も上がるようにもなって行きました。

この時から世論は変わり始め、「学校という場はもっと開かれたところであるべきだ」という論調が勢いを持ち始めます。

この事件をきっかけに「学校」という場がいかに治外法権化しており、浮世離れしたものになってしまっていたか、また、(全員とは言いませんが)教師という立場の人間がいかに世間の常識と離れているかが徐々に白日の下に晒されるようになり、この時を皮切りに教師や学校という存在の威厳は失われ始め、同時に不信感や不満が噴出して行くようになって行ったように見えます。

「モンスターペアレンツ」も、元を正すと…

それから20年あまりが経過しました。前述のような中学校時代を過ごした私たちや私たちより少し上の世代が30代中盤や40代を迎え、今度は自分の子供が義務教育を受けるようになります。

平成も終盤あたりになって「モンスターペアレンツ」という存在がクローズアップされました。意味はご周知の通り学校や教師に無理難題を押し付ける怪物のような親のことですが、実はこのモンスターペアレンツって、「モンスターティーチャーズ」から教育を受けた人たちなんじゃないかと私は見ています。

彼らの心の奥底には「学校」という場への強烈な不信感や、もっと言えば恨みや恐怖に似た感情があるのではないかと考えます。彼らはあれしろこれしろと事細かく学校に要求するわけですが、学校という場で行われる判断や学校が持つ価値観、ルールというものをまったく信用していないからこそ、自分の価値観を持ってあれしろこれしろとクレームを付けてしまうんです。それって実は、自分が小中学校の頃の、教師の楽園と化していた学校の記憶がすごく根強くあって、自分の子をそんなところにやるのが不安で仕方ない、という心理が働いているように思うんです。

あの残忍な酒鬼薔薇聖斗の事件と、昨今のモンスターペアレンツの件、実はこうやって一つの線で繋がっているのではないかという気もします。

今の若い先生は、ある意味時代の被害者

このことを考える度に、今の若い先生って本当に割りを食ってしまっているな、と感じます。過労死寸前まで無給で働いて、それでも自分勝手な親に翻弄されて。一度は失墜した学校や教師に対する信頼回復のために、身を粉にして働いています。

一方、かつてのモンスターティーチャーズは学校や教師という肩書を散々貶めておきながら、高い退職金をもらって批判からも逃げ切り、悠々自適な老後生活。

私の大学時代の友人にも何名か教師になった人がいますが、それを考えるとすごく腹立たしかったり、悲しかったり、しかしそんな中しっかり情熱を持って生徒に向き合う姿には尊敬の念を抱いたりと、非常に複雑な思いになります。

あんな凄惨な事件は、もう絶対に、二度と起こってはいけませんし、ただでさえ難しい思春期の年頃を迎えた中学生を戦犯扱いして連日批判し続けた当時の日本のマスコミのモラルも、許されるべきものではないと思います。

ただ、「平成」と聞くと私はどうしてもこの事件を思い浮かべますし、1990年代という時代の持つ病理性がものすごく複雑に、幾重にも絡まり合って噴出した事件であったと思います。

そして、その時代を「中学生」という当事者として過ごした私の見たあの事件のことを、平成が終わる今、ここに書いておきたいと思いました。

タイトルに「ゲイ」って書いてあるのにまったくセクシュアリティとは話が逸れていますが(笑)最後までお読みいただきましてありがとうございました(セクシュアリティ関連の話を期待していた方、本当にすみません)。

本記事「ミレニアル世代ゲイの私が見た平成サバイバル-陰鬱、退廃、そして再生の時代-」は、もしかしたら5月1日までの間にちょっとシリーズ化するかもしれません(気が向いたら)

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