どうも、英司です。去る2018年3月11日(日)、新宿区内にある喫茶店にて、知人を通して紹介されたNHKの方からLGBTに関することについて取材を受けて来ました。
まだ何か具体的な映像や音声の収録というわけではなく、現在構想中の番組企画の骨組みとなる視点・座標を探っているといった感じで、ディレクターさんの相談に乗る形で意見交換をして来た、という感じです。
これまで同局は、LGBTを福祉の対象であるべき存在、社会的弱者という視点で扱って来て、実際に「著名なLGBT論客・専門家」を名乗る人たちは皆一様にそのような主張をし、それを代表意見として扱って来ました。
しかし、必ずしもそのような「代表意見」「専門家による統一見解」が街場の普通のLGBTの実態を正確に映し出していないのではないか、という疑問も生まれているようで、今回の取材に至りました。
実際には2時間に及ぶ取材で、かなり膨大な量の情報がやりとりされましたが、今回はそのほんの一部を当ブログで紹介させていただきたいと思います。
かなり駆け足な内容になりますが、私の視点から見た昨今のLGBTを取り巻く環境について、皆さんに共有できればと思います。
トランプ政権と日本のLGBT
最近、LGBT当事者の中からも、ブームに関して懐疑的な声が出てきている理由は何だと思うか?
英司:ひとつに、アメリカ合衆国でのトランプ大統領の誕生も大きく影響しているのではないか。日本でも2013年頃に始まったLGBTブームの初頭から、これを懐疑的に見る人は一定数存在していたが、「あの人たちは世の中のためを思ってやっているんだ。だから水を差すようなことを言ってはいけない」と言い聞かせ、多少疑問に思ったことでもひとまず静観する向きが強かったように思う。
しかし、次第に当事者本来のニーズとかけ離れたモノや制度が計画され、ほとんど同意できないような意見や難癖の類のものが「LGBTの代表意見」としてメディア等でも喧伝されるようになって来て、「あれ、おかしいな」という空気が充満し始めていたところ、太平洋を挟んだ海の向こうでトランプ大統領が誕生した。
あの瞬間に「善意や正義というものは必ず良い結果を生み出すべきだ」という理想論が崩れ、これらを自身の主張の正当性として来た人たちの意見に対し、異議を唱えることがタブーではなくなって来た。
洋の東西を問わず「自分は正義の側にいる」と考えている人々の言動や主張は過激化しやすいが、その原因のひとつとして「正義」や「善意」を根拠とした主張に対しては、何か思うことがあっても周囲は異論を唱えづらかったということがあると思う。この不文律を崩したのがトランプ大統領の誕生という衝撃的ニュースだったのではないか。
米国ではトランプ大統領の誕生を「ポリティカルコレクトネス疲れ」と見る向きが多数だが、あの翌年の2017年には欧州全土で反EU、移民排斥等の主張をする政党や政治家が躍進した。ポリティカルコレクトネス疲れという現象は米国だけの話ではなかった。
そうなると当然日本も他人事ではなかったのではないか。とても絶妙なタイミングだったと思う。そうした背景を鑑みると、こうしたLGBT内部で不自然なブームに異議を唱える声というのは、ここ1年くらいで突如発生したものではなく、秘めていた思いが噴出した、というニュアンスの方が近いのではないか。
LGBTと丸山眞男
昨今の「LGBT=キラキラ系」というイメージ戦略についてどう思うか
英司:何かを「思う」と言うより、率直に言ってあまり理解できない。私は、まともな大人の社会人にとって、アイデンティティとは自分と社会との関わり方の如何によって決まって行くものと考えている。つまり、自分は社会に対してどんな付加価値を提供できる(したい)人間なのか?どんな選択をする人間か?ということがアイデンティティになる場合が多く、仕事や趣味・特技、購買行動などがこれに当たる。
一方で、セクシュアリティというものはそれらとは性質がまったく違うものと考える。セクシュアリティは持って生まれたものの一種であり、これはどちらかと言えば「出自」や「門地」「血筋」と言ったカテゴリのものに含まれると考えている。
良識ある大人は、他人や自分の出自や門地、血筋を話題にし、自分は優れているとか劣っているとか、そういう話はしないし考えもしないと思う。なので、これは「差別」というより「モラル」の問題なのでは。
昔、思想家の丸山眞男さんが著書「日本の思想」の中で「『であること』と『すること』」という論評を出したが、現代社会を生きる一当事者としては、あれがしっくり来る。
高度に成熟した自由な今の社会において、人は「何者であるか?」よりも「何をする人か?」で評価・判断されるべきで、私はそういう社会が幸福な社会だと思う。
なので、LGBTだから劣っていると言われるのは嫌だけど、LGBTだから何かに優れているとか、何かしら特定のイメージを演じないといけないという発想もあまり本質的な議論ではないと考えている。
加害者と被害者という二項対立では議論できない
一橋大学で学生が自殺をしてしまった事件について、率直にどのような感想を抱いたか
英司:率直に、お亡くなりになられたご本人の苦悩や、ご家族のお気持ちを考えると胸が痛む思いがする。私自身、思春期や青春期の頃は自身のセクシュアリティに悩み苦しんだ時期もあり、あのニュースを見るたびにその時の記憶も呼び起こされたので報道を見るのも辛かった。
しかし一方で、「カミングアウト」というものが少し神聖なモノとして扱われすぎてはいないか、という疑問も抱いた。
「カミングアウトは当事者の存在を可視化させて、LGBTの差別や偏見をなくして行く行為だ。だからみんなどんどんカミングアウトしていくべき」との主張をここ数年、方方で耳にしてきた。確かにそれは政治的には正しい主張かもしれないが、危険性も孕んでいると感じる。
私は、本来カミングアウトというのはしたい人はすれば良いし、したくない人はしなければ良いものと考えている。カミングアウトとは良くも悪くも「自分のためのこと」であり、それ以上でもそれ以下のものでもない。
そこに「世の中を変える」とか「正義感」とか「正しさ」とか、政治的な主張を介在させるべきではないと思う。
特に、学校と家庭という狭いコミュニティでしか生きておらず、周囲に人生経験が未熟な人も多い学生さんに関してはより慎重であるべきと考える。このような背景を鑑みると、特に学生さんに関しては政治的な正しさや主張以前に、自分の身の安全を第一に考えて欲しい。
ここ最近、前述のようにカミングアウトに関する良い面ばかりが強調されて来たが、同時にリスクがあるということは、大多数の普通の大人のLGBTたちはよく理解している。
この事件をきっかけに、これまで強調されて来すぎた「カミングアウトのメリット」が一旦見直され、「カミングアウトのリスク」に関して冷静な議論が起きることを期待したがそうはならず、権威あるLGBT論客や専門家たちは皆、自殺に繋がった原因を作った男子学生に対する一方的な弾劾、バッシングと、日本社会の現状に対する批判を繰り返しただけだった。
世の中には当然、LGBTの存在を理解できない人や差別的な人がいて、LGBTの人権を叫ぶ自由があるのと同じように、LGBTなど理解できないと思う自由もあるという現実はやはり避けられない。
こうした冷静な判断ができない若者に対し、一方的な情報しか行き届かない状況が作られていたことによって起きたのが今回の事件であると、私は理解するに至った。
以上、ほんの一部でありますが、ご紹介させていただきました。
いつものブログとは違い、話し口調でできるだけその時の現場を思い出しつつ、その時取っていたメモを見返しつつ書いてみました。
この内容をすべての人に共感してほしいとは思いませんし、この意見こそがLGBTの代表的意見とも言いません。中にはいつも通り私を差別主義者だと言って弾劾する人もいらっしゃるでしょう。
しかし、これまでメディア関係者に対し語られてきた「専門家による統一見解」と違ったものの見方を提示し、専門家でもLGBT市場で生計を立てているわけでもない一街場の市民の声として、私なりに今見ている「世界」を言葉にして意見交換をできたのは貴重な体験でしたし、言葉にすることで改めて考えがクリアになった部分もありました。
どうか良いコンテンツ作りの役に立てればと思います。